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天竜川龍神伝説
1.坂上田村麻呂将軍と赤蛇伝説

  荒れる天竜川    桓武天皇の延暦年間(西暦七八二年〜八〇五年)、勅命により東国へ向かっておられた坂上田村麻呂将軍は、曳馬(浜松市)北方守護である玄武神の霊威を意味する船岡山(現在の浜松市東区半田山〜浜北区内野台)に到着されました。それより先の天竜川はその当時、岩田の海と呼ばれる程広く、非常に荒れており、地域の人々を困らせていました。  
 



 そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、一夜の宿を取られました。
そして総本尊様であるお薬師様に、何卒苦しむ衆生を、民を救いたまえと御祈願されました。
 
お薬師様にご祈願
 
 
荒れ狂う海から現れた玉袖
 



すると岩水寺のすぐ東側、岩田の海、袖ヶ浦と呼ばれる地域(現在の天竜区二俣町鹿島)、にて荒れ狂う海から、美しい玉袖と名乗る姫がお薬師様の神々しい光と共に現れました。
 
 



 将軍様の奥方に迎えられた玉袖。やがて玉袖は身重となりました。いよいよ出産という時、四方四間の産屋を建ててもらい「わらわが産み終わって出てくるまで、決してこの中を覗かれないで下さい。」と、将軍に堅く言いおいて産屋へ入られました。
 
産屋
 
 

それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、心配になった将軍がふと産屋の節穴より覗いてみると、中には二十尋(三十メートル)はあろうかという大蛇が七巻半たむろして赤子を舐めていました。
 
  様子をみる将軍   赤子を舐める大蛇  
 
赤子を抱いた玉袖姫
 


 驚いた将軍は産屋を蹴破り、中に入り込もうとするや、目の前に赤子を抱いた美女、玉袖姫が現れました。

「自分はこの海に住む蛇であります。お薬師様のお力で将軍様にお仕えする事が出来ましたが、本来の姿を見られた限りお別れしなくてはなりません。ただこの子はあなた様のお子であります。どうか立派な武将にお育て下さいませ。」と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行かれました。
 
 



 それから八年の年月が経ち、将軍は再び勅を奉じ一子赤蛇丸(後の俊光)を同行しこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。
 
水干の玉を投げ入れる将軍
 
 
岩水寺の赤池に隠れる赤蛇
 



  水が干上がった時赤蛇は岩水寺の赤池(閼伽池)に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものであります。またその玉が奉じられているのが浜松市東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。
 
 



  その後成長された俊光公は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上されました。父が寵愛の頃の姿を現し給えと願い一七日間(一週間)参籠されました。満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ「玉袖のかわく間もなしここに来てわれ母ならば子安をぞいのる」といいつつ姿を消されました。
 
雷鳴轟く豪雨の中現れた玉袖
 
 
お地蔵様
 



 かくて俊光公は衆生済度法悦楽土を築く為に御母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師空海上人一刀三礼の地蔵尊を銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。
 
 



  そして御父田村将軍の守り本尊の十一面観世音菩薩を岩水寺鬼門の守り神とし(現在の白山妙理大権現宮。本地垂迹説により白山妙理大権現と十一面観世音菩薩は 同体とされる。)、
 
十一面観世音菩薩
 
 
阿弥陀如来
 



田村将軍東征持念仏の阿弥陀如来を裏鬼門の守り神(現在の八幡宮。本地垂迹説により八幡大菩薩と阿弥陀如来は 同体とされる。)としました。
 
 

 また田村将軍は岩水寺に寺領二百余町歩寄付され、寺の名前を龍宮山龍池院と名付けられました。その後弘仁年間 (西暦八一〇年〜八三四年)に比叡山延暦寺の末葉となり、後に東寺の末葉となり仁和寺にも従い寺号を般若院と改めました。
 この田村将軍から頂いた“龍宮山”の山号は千二百年経った現在でも使われております。また元々の瑠璃山という山号は岩水寺の住職が特別な法務をする際に使用しております。

 
  十一面観世音菩薩  

2..鎌倉幕府と北条時頼

  宝治年間(西暦一二四七年~一二四八年)に執権の座を北条時宗に譲った北条時頼が、旅僧の姿で岩水寺を訪れました。岩水寺本堂より三〇〇メートル南西にある 裏鬼門を護る八幡宮を中心に寄進を受けたと伝わります。

天明二年(西暦一七八二年)作の「遠州一統志」(静岡県立図書館蔵)によると、朱筆で鎌倉時代に北条氏より寄付を受けたとの書きつけがあります。

 当時岩水寺は領田も広く、浜松市東区の赤池村(現浜松市東区豊町)は岩水寺の領内であったと云われ、また羽島村(同豊町)には大門跡があったとされています(「遠州一統志」より)。また当時は十二の塔頭寺院と三百六十人の僧侶が在籍していました。

天竜川が荒れていた時、赤蛇が祀られている椎ケ脇神社(浜松市天竜区)へ岩水寺の僧侶三百六十人が三百六十本の塔婆を納めた所、天竜川の氾濫が治まったとの事です。江戸時代までは毎年七月七日、明治から昭和三十年頃までは毎年大晦日に椎ケ脇神社へ塔婆を納めていました。

3.竜宮伝説と無文禅師

 椎ケ脇神社には竜宮伝説があります。その昔神主が枝切りをしていた所、ナタを淵に落としてしまいました。拾おうとしてのぞき込むと深い淵中に引き込まれてしまいました。目を覚ますとそこは竜宮城。乙姫様から他言無用、もし話したならば口が聞けなくなると釘を刺されました。地上へ帰ってきた神主は話すのが駄目ならば書いてこの事を皆に教えようと考え、紙に竜宮城について書こうとした所字が下手になってしまったとの事です。但し、二百年程前の古文書によると、この時神主が竜宮で会ったのは乙姫ではなく竜神であったとされています。

 また、南北朝の戦乱期に奥山方広寺を開かれた無文禅師が天竜川は二俣町鹿島までこられました。しかし天竜川は大洪水で渡れませんでした。禅師が困っているとふと川向こうに椎ケ脇神社があり、ご祈願をされました。すると川上から松の大木が一本流れて来て、禅師の前へ一本橋がかかりました。
 

禅師はその一本橋を渡り椎ケ脇神社にお礼参りをして、岩水寺へとお着きになりました。一夜の宿をお願いされた所、小僧が出てきて泊める訳にはいかないと申しました。禅師が理由をたずねると小僧は何故女人禁制のこの寺に女人をつれてくるのですかと尋ねます。
 

禅師が驚き後ろを振り向くと、一人の美女が後ろにおられました。竜神が禅師をお守りするために小町美人となってお供をして来たのです。禅師が話しかける間もなく姿が消えてしまいました。そして禅師は一晩岩水寺へお泊りになられ、翌朝お地蔵様(竜神様)に御礼をされたとの事です。
 

ある日、禅師は弟子を集めて説法をしていると、どこからともなく美しい娘さんが訪れて来ました。見れば岩水寺をたずねた時、あとをついてきた龍神でした。龍神はたくさんの悪い虫が体についてしまったので禅師の力で取り除いて戴きたいと訪ねて来たのです。禅師が化身では困るから本体になって欲しい旨を伝えた所、急に雷鳴轟く豪雨となり、雷が山々に響き渡りました。禅師が蛇身に近づき経を読まれ、ホッスで蛇身をなでられると、鱗はバラバラと落ちました。
 

その時尾のあった所を尾沢、ヒレのあった所をヒレ田と言い、うろこを拾い集めて社に納め椎河龍玉神社とよびました。龍神は助かりそのお礼として山に水を絶やさずに流す事を約束され、一つの珠を西の山にうめました。ここを珠の窪といいます。水は谷間を通り方広寺山門脇の庭に流れています。
 その後禅師からの使いにより岩水寺でお地蔵様(竜神様)の御開帳をする事になりました。お地蔵様は秘仏であり普段はお厨子にお入りになっておいでです。またお地蔵様は天竜川の天の竜の化身であると共に、田村将軍公の奥方でもある為お衣を着ておられます。三十年に一度、お衣替えの為に御開帳されるのです。ただその時住職は重病の為しばらく御開帳が行われていませんでした。
 

お厨子を開けたとたん虫が中から飛び出てきました。けれどもお地蔵様やお地蔵様が着ておいでになられたお衣はキレイなままでした。七日間に及ぶ法要が終わると住職の病はすっかり治り長寿を得られたとの事です。
 

禅師がお泊りになられた時お世話をさせて頂いた小僧は修行を重ね、名を良全と変え岩水寺の住職となりました。享徳元年(一四五二年)良全、その弟子の良覧等が根本堂(薬師堂)を再建する為に勧進し、享徳三年(一四五四年)五間半四面の根本堂を建立。名を般若院から岩水寺と改めました。この根本堂は江戸期に改修が行われ六間半四面のお堂となりました。

 


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